大学時代の軌跡

自宅の納戸を整理していたら、35年以上も前の私が大学生の時に京都新聞や大学発行の新聞に掲載された大会結果が出てきました。捨てられずに残してあったんですね。処分する前に写真を撮りしました。
常に上位に入賞する有名なスター選手とは違い、当時から中途半端な成績しか残せなかった私は、大会結果などが掲載されたものが少ししかありませんが、少なかったからこそ残せたのだと思います。



一浪するも勉強する気なし
北海道のど田舎の女満別高校の生徒は農家の子供が多く、大学へ進学するのはほんの一握りで、私は現役合格が叶わず一浪しました。
札幌予備学院の北大理系コースへ通っていた時、同じ予備校の別コースにインターハイの北海道予選で優勝したH川くん(札幌手稲高校→札幌大学)、4位だったK村くん(岩見沢東高校→小樽商科大学)がいたので、予備校の体育館で一緒に練習することもありました。また、眠れない夜には寮の前で一人で疲れるまで素振りをしたりしていました。
しかし、受験勉強をするために予備校へ通っているのにまったく勉強のやる気が出ず、点数が上がる訳もなく、秋の親同伴の三者面談で予備校の顧問から大学への進学を諦めることを提案されました。
いま思えば、目標をしっかり決めていなかったので、やる気が出る訳もないし、良い結果が出ることもなく、ダメ人間の典型ですね。



もっとバドミントンを頑張りたい
高校で始めたバドミントンをもっと突きつめてやってみたいという一心でいましたが、秋にダメ出しされたことでお尻に火がつきました。
それから、どうすれば大学でバドミントンができるのかを自分なりに考えて初めて目標を決めて、母方の親戚がいる京都なら道外へ進学しても良いと言われていたので、一念発起して、3科目で受験できる私立の文系に方針転換。京都にある大学を幾つか受験し、父の出身校の大谷大学も受験しました。結果的に京都の大学では大谷大学しか受からず大谷大学への進学を決めました。
母方のいとこ(現在、酒造メーカーの社長)が京都大学法学部へ入ったというのに、なぜ自分は坊さん学校へ?という気持ちもありましたが、それでも、予備校の模擬試験でD判定以上の評価をもらったことがなかったことを考えれば、集中して頑張った方だと思います(笑)。



自分でお経をあげています
それでも、父と同じ大谷大学へ進学したことで、親が信仰している浄土真宗大谷派のことも知ることが出来たし、お経も読めるようになりました。そのお陰で、毎月、祖父母や父母、そして我が家の水子さんの月命日には自分でお経をあげてお参りしています。また、父がお寺の次男だったこともあり親戚にお寺が多く、父方のいとこはほとんどが大谷大学出身なので話が合うことも嬉しいことの一つです。



生意気で怖いもの知らず
大学へ入学した数日後に自らバドミントン部の部室を訪ね、「入部を検討しているのですが、関西学生リーグのランクが下の方だったら入部をやめようと思っています」と、1回生ながら生意気にも当時部長だった4回生のK井先輩と直接話をしました。当時は怖いもの知らずでしたね。
※K井先輩は、下記写真の一番右側で白いシャツを着て拳を握っている方。
※当時、バドミントンマガジン(1982年7月号)には関西学生リーグ1部の結果しか載っていなかったので、2部以下の大学の実績を知ることが出来ませんでした。

私の問いに対して、K井先輩は「2部だからそんなに下ではない」と答えたと記憶しています。「それなら、明日からでも練習に参加させてください」と申し出て、早速、翌日から練習に参加しました。
後でK井先輩から聞いて知ったのですが、本当は関西学生リーグ6部だったのに、とぼけて京都学生リーグ2部だったことを私に話したようで、まんまと騙されました(笑)。



弱小大学のバドミントン部へ
練習参加初日、基礎打ち後にK井先輩から「横山、試しに俺とシングルスのゲームをしよう」と言われ、生意気だった私は「自分が負ける訳がない」と思ってゲームをしました。
結果は、1ゲームだけでしたが私の負け。私は悔しくて「先輩、明日、もう一度ゲームさせてください」と申し出て、翌日は私が勝ちました。

その後も毎日のようにK井先輩とゲームをして勝ったり負けたり。
時には「横山、今日はアイスをかけて勝負しよう」などと先輩が言い出し勝負をしましたが、K井先輩はアイスをかけるとなぜか強いんです(笑)。
そんなことをしているうちに、練習が楽しくなって、結果的に関西学生リーグ6部の弱小大学のバドミントン部へ入部し、翌週(4月中旬)には京都学生リーグ(当時、男子は2部)が始まりました。

いま思えば、K井先輩がいなかったら私は大学でバドミントンをしていなかったかも知れませんので、K井先輩は私の生涯の恩人です。K井先輩とは、卒業後も東京でプライベートでお世話になりましたし、事あるごとに連絡を取り、OB会などでもご一緒させていただいたり、今でも良くしていただいております。



関西学生リーグ6部の弱小大学から関西新人戦ベスト8
スポーツ推薦選手が毎年入る大学がありますが、大谷大学は高校からのスポーツ推薦入学の制度がありません。スポーツ推薦で入学する選手は、インターハイ(全国大会)出場経験がある選手がほとんどで、一般入学の選手とは格が違うので、私は他校のスポーツ推薦で入学した選手には数名を除いては勝てませんでした。
それでも、京都や関西の大会に北海道出身の選手が出場することは珍しいし、ましてや関西学生リーグ6部の大学の選手が個人戦で勝ち上がると「あいつ誰や? 大谷大学の1回生? 北海道から来た? 横山? 知らんな~」などと余計に目立っていました。そのお陰で、京都産業大学や同志社大学など関西学生リーグ1部の有名校から練習に呼んでもらえることもあったりして、バドミントンを通して学生生活を楽しませてもらうことができました。



(大学1回生)
大学広報(1983(S58)年4月発行)

表紙に先輩や同期が写っていました(私が入部する前に撮ったらしく私は写っていません)。



(大学1回生)
京都新聞(1983(S58)年9月20日)

京都学生新人戦 男子シングルス 第三位



(大学1回生)
谷大スポーツ菩提樹(学内広報紙、1983(S58)年10月発行)

京都学生新人戦 男子シングルス 第三位
関西学生新人戦 男子シングルス ベスト8




(大学2回生)
バドミントン・マガジン(1984(S59)年7月号)

関西学生リーグ(春季大会)結果
男子6部Cブロック2位
女子2部3位



(大学2回生)
谷大スポーツ菩提樹(学内広報紙、1984(S59)年11月発行)

全日本学生大会(インカレ愛知大会) 男子シングルス 初出場

関西学生新人戦 男子シングルス ベスト16
京都選手権 男子シングルス ベスト8



(大学2回生)
バドミントン・マガジン(1985(S60)年1月号)

関西学生リーグ(秋季大会)結果
男子6部Cブロック1位
女子2部3位



(大学3回生)
バドミントン・マガジン(1985(S60)年7月号)

関西学生リーグ(春季大会)結果
男子6部Cブロック1位
女子2部4位



(大学3回生)
バドミントン・マガジン(1985(S60)年12月号)

全日本学生大会(インカレ西宮大会)結果
男子シングルス 3回戦敗退



(大学4回生)
バドミントン・マガジン(1986(S61)年7月号)

関西学生リーグ(春季大会)結果
男子4部4位(これでも私の在学中の最高位=1部から数えると22位)
女子3部4位



(大学4回生)
天嶺(体育会機関誌、1986(S61)年12月発行)

その年の大会結果ほか(京都学生リーグ、関西学生リーグ ほか)
京都学生リーグ
男子2部3位、女子2部4位
関西学生リーグ(春季)
男子4部4位、女子3部5位(入れ替え戦敗退、4部へ降格)
関西学生リーグ(秋季)
男子4部5位(入れ替え戦勝利、4部残留)、女子4部9位
※当時、京都学生リーグは、男女とも6校ずつ3部まで。関西学生リーグは、男子は6校ずつ6部まで(6部だけはA~Cブロック)。女子は6校ずつ6部まで(4部だけはA~Bブロック、5部だけはA~Dブロック)。



(大学4回生)
バドミントン・マガジン(1986(S61)年12月号)

全日本学生大会(インカレ札幌大会)結果
男子シングルス 3回戦敗退



(大学4回生)
主将時の名刺

皆のために素晴らしい主務役をしてくれた同期の加賀谷くん(副将兼主務)の名刺も一緒に掲載しておきます。



(大学4回生)
卒業時の記念色紙(1987(S62)年3月卒業)

後輩からいただいた記念の色紙

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