父が生前、北海道教職員バドミントン連盟の会長と、北海道バドミントン協会の役員をしていたため、父の遺品にあった下記の資料から関連する大会結果を抜粋しました。
目標もなく地元の高校へ
多くの友人や勉強ができる人は、皆、女満別から当時の国鉄で網走や北見の公立高校へ進学しました。しかし、網走や北見の高校だと部活をすると帰宅が20時を過ぎて勉強も部活も中途半端になることが嫌だった。それでも、何かスポーツの部活に入りたかった私は、父が教諭として勤務する地元の女満別町(当時)内にある女満別高校へ通うことに抵抗がありましたが、当時は何も目標を持っていなかったので、とりあえず自宅(教員住宅)から自転車で5分で通える女満別高校へ進学することにしました。
バドミントン部に入りたくなかった
私が入学した当時の女満別高校は、農業高校から普通科へ転科したばかりで、私は普通科の二期生。3年生と4年生は農業科の先輩でした。
1学年2クラスしかない小さな高校で、私は中学生の時にバスケットボール部に所属していて、中学のバスケ部にいたあこがれの先輩が女高バスケ部にいましたが、当時のバスケットボール部は部員が5人しかいなくてつまらないし。。。当時、反抗期だった私は、父が顧問をしているバドミントン部に入るのが嫌で迷っていました。
女満別高校で一番活躍していたバドミントン部へ
父は敢えて「バドミントン部に入れ」とも言わずにいてくれましたが、数日冷静に考えて、全道大会へ出場するなど女満別高校で一番活躍していたバドミントン部へ入ることにしました。
でも、入部することをバド部の顧問でもある父へ直接言うのが嫌だったので、入部を勧誘しに来た女性の先輩へ「バドミントン部に入ります」と伝えました。
いま思えば、私がバドミントン部に入ったことを父はすごく喜んでくれていたのだと思います。本心は聞いていませんが。
バドミントン部の先輩は全員女性でしたが、全道大会へ出場している先輩もいて、私達初心者の1年生に優しくバドミントンを教えて下さいました。
男子は私の同期5人で、ぎりぎり団体戦を組める人数。中には農家さんの子供もいて、畑仕事の手伝いで度々練習を休む子もいました。
女満別のスポーツセンターでも練習しました
ほぼ毎日の部活の練習以外に、女満別町(当時)のスポーツセンターで夜間に練習できる日が週に2~3日あって、部活後にスポーツセンターでも練習できたので、ある程度の練習量を確保することができました。
当時、女満別高校の教員でバドミントン部の顧問だった父の影響で、女満別高校内の独身の先生の多くはバドミントンをしにスポーツセンターへ来ていたので、顧問ではない先生らともゲームをしたり、隣町にある網走高校へ女満別から通いながらバドミントン部に入って全道大会でベスト8に入ったM先輩とも練習することもできるなど練習相手にはことかきませんでした。当時、独身で女満別高校が教員としての初任地だったK崎先生(現、北海道バドミントン協会の理事長)は顧問もしてくださり、時には練習相手になってくださった一人です。
その当時の女満別では、町民だけでなく近隣の街の人も女満別のスポーツセンターへ練習に来たり、年令に関係なく一緒に練習していた経験が、いま私が主宰している大谷地クラブの練習や大会のアットホームな雰囲気につながっていると思います。
全道大会では1勝するのがやっとで2回戦敗退
当時の北見網走地区は、ほとんどの人が高校へ入学してからバドミントンを始めるためレベルが低く、地区で優勝して全道大会へ行っても初戦敗退がほとんどで、私も全道大会では1勝するのがやっとで2回戦敗退でした。高3の6月のインターハイ予選でも、バドミントンを始めてまだ2年2ケ月程度ですから無理もない。
父はといえば、
公立の女満別高校へ赴任する前に、私立帯広大谷高校のバドミントン部で顧問(1959(S35)~1966(S41)年)をしており、帯広大谷高校を全国大会へ何度も行かせる常勝校へ育てた実績があり、公立高校の教員になって初任地の女満別高校へ赴任してからは北見網走地区でバドミントンを広めることに尽力したようです(父の他界後、北見網走地区では横山杯と命名した大会が開催されています)。
女満別高校へ赴任した当時、帯広大谷高校での父の実績を知っている近隣の高校から声がかかり、当時、農業高校だった女満別高校を離れて、放課後は網走の高校などへバドミントンの指導へ行っていたようです。その努力の甲斐あって、私立網走高校を全国大会へ行かせました。下記の記念誌に掲載されている網走高校の団体戦名簿のコーチ欄に父の名前が残っています(1974(S49)~1975(S50)年)。
それを思うと、息子の私が全道大会で2回戦敗退とは、出来の悪い生徒だったとしか言いようがありません。
目標もなくのほほんとバドミントンをしていただけの反抗期の少年でしたから。。。。
全日本チャンピオンが女満別へ来た
十勝の池田町にあるお寺の次男で高校生までテニスをしていた父が、大谷大学へ入学後、まだ競技人口が少ない時期にバドミントンを始め、当時、唯一、国内でシャトルを製造していたサンバタからの依頼でシャトルの検定員もしていたらしく、学生時代からサンバタや河崎ラケットなどバドミントン製品のメーカーとつながりがあったと聞きました。その後、帯広大谷高校や網走高校での実績も手伝って、各メーカーから毎年のようにラケットなどの新製品が送られてきていました。
そして、私が高校生の時、北見網走地区の選手のために、当時、河崎ラケット所属で全日本チャンピオンだった銭谷欽治選手(現、日本バドミントン協会の専務理事)を女満別へ呼んで講習会を開いていました。
・50周年記念誌(北海道高等学校体育連盟バドミントン専門部、1998(H10)年6月発行)
・北海道シャトルの軌跡 創立40周年記念誌(北海道バドミントン協会、1988(S63)年発行)
高校2年生(1980(S55)年6月)
高体連(全道大会)個人戦 男子シングルス 1回戦敗退
高校3年生(1981(S56)年6月)
高体連(全道大会)団体戦 男子 2回戦敗退
高体連(全道大会)個人戦 男子シングルス 2回戦敗退
高体連(全道大会)個人戦 男子ダブルス 2回戦敗退
父の大会結果(1982(S57)年1月)
50歳以上男子単・複優勝(2冠、北海道選手権大会)